啓示生活

与えられたものを通過します。なるべく何も論じないことを目指します。

「時間を間違えてはいませんか」男は再度彼女の肩に手を乗せ、

「時間を間違えてはいませんか」男は再度彼女の肩に手を乗せ、股間をそれとなく押しつけてさえいる。だいいちあちらには見慣れている光景だろうし、こちらに非がないとなれば恥ずかしがる理由もないではないか。堂々としていればいいのだ。湯の中から立ち上がって股間を、そこにあるものを見せつけてもなんら問題はない。そこまでする義理もないが、こうした外交的問題には日常的に用いられる倫理とはまた質の異なる強気の解決策でパフォーマンスを最大にしなければならないのだ。「我々にはこうして抱きあって、愛しあう権利があるはずだ!」
「誰が掃除をしていると思っているんだ」おじさんはモップを投げ捨て、二人に歩み寄ってくる。「君たちが快適に湯につかるために、ああん、一体誰が――」
「ひるんでなどいない」男は全裸の女を脇に追いやろうとする。「いいから逃げなさい、いいね、――」
「俺にも抱かせろ!」おじさんが飛びかかったのは女のほうで、二人まとめてなだれ込み湯飛沫が上がって男の顔にばっちり飛び散る。そのとき湯の効能(血行促進)が激しく作用して男のちんぽがみるみると膨れ上がったのだが、幸いにも片手で覆い隠せるサイズであったから、右手で性器を隠しながら、左手をおそるおそる伸ばして湯の中で豪快に揉みあっている二人のいる方面のお湯をちゃぷちゃぷ撫でた。すでに湯から上半身を出して立ち上がっていたから、心臓に負担がかからないようおっかなびっくり体を沈めながら左手を伸ばしていくが、残念ながら彼の手はおじさんの激しく震える尻に挟みつかれた。やりがいのある仕事だ、V・Vはそう思った。本人がそう言っているのだから間違いはない。間違えてばかりなのも世の常だが、少なくとも本人はそう言っていた。5・5という数字を、電気スタンドのある側へ横目をやらないようにして、同じ数字がふたつ並んでいるなあ、と思ったのかもしれない。この5月5日は、言うまでもなく2016年の5月5日であった。それから時は経ち、5月11日――間違いなくその日は5月11日として、ありふれた水曜日として、始まったのではないかと思う。あとで強い意味を与えることになったとしても、そのずっと前から思いがけない瞬間を感じていた人自体は――バスに間に合わない、追いかける、窓を叩いて手を振って、それでもバスは走り出す、もう取り返しがつかないのだと気がつく――いたことにしてもいいだろう。想像すれば誰もがそう気がつくだろう、というには傲慢にしても。V・Vは実に国際色ゆたかな国際空港にやってきた。新しいセミナーの依頼だ。ダークスーツを着て、髪をツインテールに束ねて、左手にはナンバーロック搭載の真っ黒なビジネスバッグを持ち、冗談のように高い――とはいえ奴ら本気なのだが――天井のロビーを右足と左足を交互に出して歩いていく。入信セミナーでは赤・青・黒の三色ボールペンを使って必修のテキストに従って講義を受ける。セミナーには更に上の段階があって、より高次のセミナーを受けることで教団の中での位階も上がっていき、信者の中ではすぐそれと分かるバッジを胸に付け、大勢で専用の緑色の制服を着て記念写真を撮ることになる。つみ上げた時間、つり上げた賭け金が大きすぎて、ここまで来るともうほとんど後戻りできない。誰もが本気できれいにしようとしなくなった居間のテーブルで、母さんが専用の用紙に給料から引き抜いたお札を包んで筆ペンでなんだか申し訳なさそうに、でもこの誠意はいずれ報われるでしょうから、そんな顔で名前を書いていき、さらに修行を積めば教団から新しい名前を授かることもできる。それで現実世界ときれいさっぱりお別れするのだ。父さんは泡盛を飲みながら「被害者の会」のパンフレットを新聞の上にこれみよがしに広げて、さも自分は家族としての責務を果たしているような顔をしている。これで何千回目になるだろうか、V・Vはプレイリスト〈Sample Music〉を聞いている。〈キラめいて あるがまま/浴びていたい青さを/きっと変われる 駆けだそう〉……にしても、どこに駆けだせばいいのかって話で、学校でつまんない授業聞いて、家では母さんのたわごとと父の超つまんない愚痴を聞いて――この頃ごっそり髪が抜けてきた――どんどん貧しく何もなくすり減りながら終わっていく。小説を書こうと思ってる、とはたぶん去年の春休みだかに周りにそう言って、言ってるうちは冗談のつもりだったが「書くんだってね」とか言われるうちに本気になってしまって、なんだか恋愛みたいなものだが恋愛のことはほとんどよく知らない。この「ほとんど」というのがちょっとした伏線で、うっかり言ってしまったものはしょうがないが、おいおい分かってくるだろうから、申しわけないがしばらく忘れてもらえないだろうか。特に木下。冥子はすぐ他人に言いふらすくせがあって、秘密を知らせておきながらこれでみんなも共犯なのだから、平均するとそのぶん私の罪は薄まったようなものではないかって顔を平気でやって、しかし裁判になれば自分の弁護士を堂々と引き受けるようなところもあり、そういう最低なところは私はちょっと好きなのだが、好き嫌いの話ではない、事態は急を要するのだ。要するに、小説を書こうと思っていたのはずっと前からのことなのだが、背後からどたどたと近づいていくる足音には場所からいっても嫌な予感がする。ちょっと寄り道の予定もあるってのに。部屋の奥の部長席のアベさんに軽く手を振り、ソファーに置いてある彼女専用の釜玉うどんの写真がプリントされたクッションを抱きかかえ、腰を下ろした瞬間、八禍本さんは私に気がついて「やあ」と言った。私は「こんちは」と答えたつもりだったけど、口に挟まっていたせんべいを割りながら言ったので聞き取れたかは謎である。
「兄弟は?」
「職員室」とアベさん。「そっちで会があったはず」
 袋の口の向きを変え、雪の宿を引き抜きながら八禍本さんは「入部するの」と聞いてくる。ガラステーブルには入部届が広げたままになっていて、私はそれを脇に押しやりながら「いやあ、――」とどうとも取れそうな返事をしながら目をそらした。そのとき、
「UFO!」
 と彼女が叫んだ。指差した方角に向かって、机に足を乗せていたアベさんが文庫本を投げ捨て、引き出しを蹴ってオフィスチェアを回転させ背後の窓に顔を向け、テーブルの縁に激突した背もたれの反動を後ろ手に押さえつける。窓の向こうの空は快晴で、遠くから鳥の鳴き声が聞こえるばかりで、綿を散らしたような雲の他には一切なにも浮かんでいない。
「行っちゃったかな」
 窓を開けたアベさんは、体を乗り出して外を眺めている。私たちがやってきたことの顛末を語るためには、日本中が大騒ぎになった〈ようこその日〉からさらに遡って2016年5月9日、それなりに仲良しだった――と、私が勝手に思い込んでいた――佐村一縷さんが旧校舎の屋上で飛び降り自殺をすることに決めた、青空がすごくきれいだったあの日から、話を始めなければならない。ドップラー効果。過ぎ去っていく振動が引き延ばされて奇妙に変形して感じられ、すぐ近くで聞いていた救急車のサイレンはずっと脳内で鳴り止まず、佐村さんは何度も窓枠の上から下を通過していく。その日の私は失恋中、でも徴候は四日前、昨日観たDVD『ザ・ロック』の夢ではかつて007だったかもしれないショーン・コネリーが政府に押しつけられた任務をほっぽり出して逃げたい気分、でもここじゃ女は地下に閉じ込められた人質ぐらいで、愛する彼の娘とニコラス・ケイジのスウィートハートは広大なアメリカ国土ごと化学兵器ミサイルで狙われているのだ。
 バスに揺られて、眠いのに夢に逃げ込むこともできずに、何が数学だ、小テストだ、せせっこましいつじつまあわせだという気分になってくる。誰かが私をここから連れ出してくれるに違いないのだ。彼女は政府機関で働く殺し屋で、隣の席に座ってきて、「逃げるぞ」と私の顔を覗き込む。なんの話だろうと思っていると、とつぜん銃声がして私のひざにさっきまで窓だったガラス片が降り注いでくるのだ。黒服の雇われヤクザたちが次のバス停で車内に乗り込むと、そこにいた私たちの姿がない。カーテンが風にふくらんで、窓が開いている(というか割れてる)のに気がつき、カーテンをめくると対向車線を突っ切って走っている私たち二人の背中に、あわてて向けた銃口は横からやってきた巨大トラックに遮られ、バスはヤクザたちを乗せて走り出す。第一ラウンドはこうして決まり、私たちの逃避行が始まった。どうして私が狙われてるかといえば、もちろん、どこぞのカルト教団が私のことを救世主だと予言したからだ。V・Vが角縁眼鏡の黒人男から仕事の依頼を受けた5月5日との一週間のあいだにある5月9日に、佐村さんは屋上から飛び降りる。私は座卓の下からはい出して、ぐったりと体をひねっている木下冥子の太ももに突撃してしまい、寝返りを打った木下の足が鈴城の腹に見事なかかと落としを決めてうめき声が上がった。和ねえは目覚まし時計を下に挟んだ枕に顔をうずめてとっぷらとっぷら夢の中。カーテンをすり抜けて学習机に差し込む光が四つのバッグを照らしているのをぼんやり見つめている私は、私たちが一命をとりとめたことにまだ気がついていない。光の正体さえも知らないままだったのだから。その日、その朝というより昼と呼ぶべきかもしれない時間、佐村さんが飛び降りた校舎はもう存在していなかったし、少なくとも校舎と呼べるものではなくなっていた。クラスで生き残っていたのは学校をサボった私たちぐらいのものだった。この一週間で起こったことを、そのすべてを思い出すことはできない。何もかもをあきらめてしまったわけではないが、二ヶ月後、また席替えをするはずだった教室で、私は佐村さんと話していた。彼女は相変わらずハヤカワの青背の、たぶん『禅〈ゼン・ガン〉銃』を読んでいて、教卓で和ねえから受け取ったプリントの裏紙に数字が刻まれた細片を眺めながら近づいてきて、番号通りの席に辿り着いて机に文庫本を乗せた瞬間、私の顔に気がついて、
「お久しぶりです」
 と、言った。私はうなずいた。しばらくの間は何も話さなかった。そのつもりもなかった。どうせ彼女は本物の彼女ではないのだ。ところが、文庫本のページをめくっていく彼女を横目で見やりながら、私が、
「私も小説、書こうかな」
 そうつぶやいていた。佐村さんが顔を上げた。
「ほんとうに書きますか」
「書くわけないでしょ」
「できたら読ませてください」
「うん」
 私はまだ小説を書いていない。そのつもりもなかった、というわけでもないが。夏は相変わらず夏のままだったが、いつまでもそうであるはずはない。つまりは横に這いつくばって私を待ち構えていたということなのだが、なにぶん目玉だけでは顔の正体が分からず、いったん飛び退いた体で棚の仕切りと本との隙間を覗くと、よっぽど低く寝そべっているとみえて(それにここらの本はやけに標高もでかいので)向こうにいる誰かの姿はなにも見えない。おそるおそる先ほど自分が引き抜いた本の隙間に近寄ると、「ようこそ」と声がして折り畳まれたプリントを握り込んだ右手が飛び出してきた。その日、彼が渡してきたのとまったく同じプリントが、いま私の右手に無理やりねじ込まれている。彼の手を振り払って、プリントを広げていくと、やっぱりそこには「入部届:オカルト研究部」と書かれていた。顔を上げた途端、アベさんは「君はそこに名前を書くだけでいいんだ」と言う。
「どうして君はついてくるのかな」アベさんは部室に向かって廊下を歩いている。「本当は君だって分かってるはずなんだ。家と学校を振り子みたいに往復して、こんな退屈な人生どっか間違ってるって思って、でもどうやって変えたらいいか分からない――」
「人生はカスですよ。それとこの入部届とは何の関係もない」
「最近、部室におやつ補充しといたよ」
「そんなエサに誰が釣られるんですか……」
 二分後、二袋目の雪の宿に私がかぶりついていたとき、部室に八禍本さんが白衣姿で入ってきた。この白衣はもともと科学研究部のトレードマークで、以前の彼女はそっちに所属していたのだが、最近こっちに鞍替えしたのだ。アリスは白ウサギを追いかける、おむすびころりん穴へと落ちる……その前になんとか掴まえて、手際は悪いがなんとかポケットに突っ込んだ。しかし彼のいる灯台はとっくにテロリストの一人に狙われている。駆け出す足下の影を連射された銃弾が貫いていく。この天王山だけは死守しなければならない。アメリカを守り、愛する家族を守るのだ。たとえ最悪の大統領決定がすでに下されていたとしても……ついに、爆発がやってくる。アルカトラズに叩き落とされたミサイルがありえない速度で接近してきて、――! 終末が、大崩壊が、組織されない炎のヴィジョンが、神の言葉を空に煌めかせ、朝を真っ白に染め上げる。カーテンは無音で揺らめいている――『プライベート・ライアン』のアメリカ国旗のように、太陽を透かしながら。ああ、戦争は終わったのだ。うっすら埃の積もる床越しに殴りつけてきた地球の衝撃が、痺れる手足の感触を通してうっとうしく反響している。汗まみれの袖でベッドに這い上がろうとする。浅黒く焼けかけてはいるけど、もうその腕はニコラス・ケイジのものじゃない。でも手が痺れてるあいだは他人の体のような気がしてならなかった。しょうがないでしょ、地球にやってきて、たった十七年しか経ってないんだから……
 話の中盤ぐらいで教祖様が登場。いかにも悪そうな顔と大げさなマントをはためかせているので悪人だと2秒で分かる。教祖様は真っ赤な瞳、対して私の護衛をしているV・Vは青い瞳で、この二つの色は何度も対立する象徴として現れる――入信セミナーで受付のさわやかなお兄さんがにこやかに三色ボールペンを渡してくるのは偶然ではない。奴らの教えでは赤は火の象徴、青は水の象徴、対立しながらせめぎあい、二つの力が十字に宿る一点に聖なる神が現れるのだ。たちのぼる火は垂直線、広がっている水は水平線として表現される(この辺の理屈は分からんでもない)。私たち二人の逃避行はこの二つのフォースに導かれていて、追いかけられてひたすら走る水平移動に、サービス精神旺盛に、一章ごとにおとずれる高い場所からのスカイフォールが華麗な見せ場として決まる。教祖自ら私を悪の道に誘惑する場面では、カンフー対決で打ちのめされている私の前に、さらに戦いたいかいと、教祖が片手に赤いカプセル――奴らが流通させてる麻薬、これで人々の精神を支配するのだ、この薬で得た能力で私は奴らの総本山に殴り込んだのだが、いまは疲れ果てて息も絶え絶え――と、青いカプセル――こっちは治療用の薬――を共に出してみせる。私は〈救世主〉と予言されているのだから、すわ『マトリックス』かと赤いカプセルを選ぶのを読者に予想させておき、ここで青を選ぶのがミソなのである。そのときV・Vは見た――炎上する機体の破片が、破片とはいえずいぶん大きくもあり、激突して生まれた巨大なクレーターを私たちは神様の指紋と呼んでいて、鮮明な模様を束ねていくのは中心を貫いていく隕石が二重らせんを描くようにして、爆炎が舞い上がったとき、遅れてやってきた衝撃音に全身を叩きつけられながら、彼女はその顔と向かいあった。いつものようにくたびれた表情をしているその顔に最もあてはまる名前を、V・Vは知らないわけではなかった。創英角ポップ体のフォントで「助かります」と書かれたパラシュートが一気に開いて、彼女は空に吊り上げられた。私たちの町をきざんでいる炎の線は、ニコラス・ケイジの顔を描いていた。一人でベンチに座ってハトを眺めているような、そんな誠実なハトが今時どこにいるだろうかという話でもあるが、そうした時のように何も考えていなさそうな顔をしているのがそのときのニコラス・ケイジだ。彼はあくまで絵であって、いま上空から彼を眺めているのはまだV・Vしかいないのだが、ハトはどこにもいないのだが、たくさんの人が死んでいき、あまりに多すぎると確認するにも時間がかかり、私はまだ和ねえの部屋で寝っ転がって座卓の裏に貼られた三枚のおふだの文字をぼんやりと眺めて、まだ夢の中にいると思って上げた顔を板にはっきりと頭突きにぶつけてしまった。その日は平日、5月11日、〈ようこその日〉と呼ばれた日。鍵アカの方でも小説の話はぽつぽつしていて、でも母さんの新興宗教のことはできることなら考えたくもなかったので、別の宗教をモデルにできないだろうかと考えていた頃のことだった。汁本(しるもと)さんは、「ブラヴァツキーとか、その辺掘ってみたら」と言ってきた。とりあえずウィキをざっと読んで、学校の図書館にも置いてるっぽいことが分かったので、翌日の昼休み、さっそく受付の図書委員の女の子にブラヴァツキーの名前を告げると、検索してモニターから読み取った書名に分類番号付きのメモを渡してくれた。交互に目をやりながら歩いていくうちに、目的の本棚は部屋の一番奥の隅にあって、裏に回り込むとここだけ照明もちゃんと届かず、背表紙の色すらよく分からない。並んでいる本の下端の分類番号を指でなぞっていくうちに、私のひざが徐々にかがんでいって、いちばん下の段をしゃがんで覗き込むと、もう番号は読めないのだけど、ようやく見覚えのあるタイトルを見つけてうさぎ跳びで近寄った。背表紙に手をかけ引き抜くと、ぎょろりと開いた二つの眼球が本の隙間から見つめている。背筋を海老みたいに丸めて両足で枕を抱きしめて、本棚に乗ってる時計を見つめる。どろどろの微睡みに包まれている頭でも、長針が見慣れない位置に来てるのぐらいは分かる。登校ついでにDVDを返却するのはあきらめなさいってことね――ってわけでその日の学校帰り、立ち寄ったレンタルショップでリュックサックがぶつかって、二人は同時に振り返り、お互いに見つめ合ったとき、私は宮之城さんに恋をしていたのだった。一方そのころ、石畳の歩道を嫌というほど踏みつけながら(実際、嫌で仕方なかった)歩いていくダークスーツの少女が、小さな尻を揺らしながら進んでいくごとに左右に束ねたツインテールの金髪がバランスを取るように夜の街をかき混ぜている……ようやく目的の店が見つかった。模造樫材の看板には〈ミッドナイト・プラスワン〉と彫り込まれていて、なんだか申し訳ないぐらいに堂々としていたものだから、殺し屋の方でも誠実そのものといった体でドアをくぐり抜けていった。カウンター席へ。「ホットミルクを一杯」「あちらのお客様からです」と声がして、V・Vが脇を見やると、カウンターのみごとな一枚板をジョッキグラスに注がれたビールが滑ってきた。
「フランスにも分析哲学者っているんですね」
 そう返事すると、浅井さんは、
「なに言ってんの。デカルトの国でしょうが」
 それにしても〈デカルトの国〉とは響きがいい。そこだけふぁぼりたいぐらいだ。雲のむこう、約束の場所デカルトの国。そんな風にして久々に最後まで読み通すことができたが、もう一冊のほうは実のところ未だページを開いてすらいない。足音の正体はやっぱりアベさんで、彼の苗字はほんとうは安部(あんべ)と読ませるのだが時期が時期なだけに「アベさん」とか「総理」とか、あるいは「部長」と呼ばれているが、私にとっては未だにアベさんで、彼はいきなり飛行機を降りっぱなに横から出てきて私の手をつかまえてきた。背もたれが沈み込み、回転する空がぐるりと空を向いて、頭上で飛行機が真っ二つに避けて爆発し、V・Vは自分の座席が機体から離れて墜落していく最中なのがわかった。死んではいなかったが、未だに死につつはあり、眼下に目的地の日本が見えた。残骸が海へと落ちていくのは滑走路まで辿りつかなかったのだ。手に持っていたマグカップを置く場所はもうなかった。それは別の場所になっていた。ふわりと目の前で白い液体が浮かび上がった。ホットミルクは急速に外気に当てられて冷めつつあった。V・Vは口をかみつき上がって、ミルクをつかまえて飲み込んだ。ところで、座席の下にしまっておいたビジネスバッグがあった。手をまさぐると、まだ座席の下に貼りついていた。こんなこともあろうかと、バッグの中にパラシュートを入れておいたのだ。実際、いろいろなことがある。バッグを開けると風を浴びたパラシュートが景気よくふくらんだ。ベルトを手順通りに装着して、座席のシートベルトを外した。シートベルト着用サインはもうどこにも見当たらなかった。マーブル模様のシーツで包まれた座席が体からすり抜けていき、地球に落ちていった。
「私はね、こんなん言ってますけど」《宇宙水槽》管理人の一人、岸川さんは言った。「インターネットのユーモア全体の風通しをよくしたいんですよ。序列ができてくじゃないですか、自然と、面白さの。そんなんじゃなくってね、そういうのと関係ない場所を作りたいんですよ。どうしてもなるでしょう、あれを笑ってる人はこれを見下してないといけないって空気が、自然と――」
クラスタ?」相方のぽん酢さん。
「まあまあまあ、そういう。でね、具体的に言えば、根暗と手抜きがネットのユーモアだって風潮を潰したいなあと思ってるんですよ。ところがね、今回始まった〈架空の旅行記〉コーナーなんですけど、メール読んでってね、まさかと思ったんですけど、四十七通あったんですけど、内容のうちで家から出てるの、二通しかなかった! みなさん、いいですか〈旅行記〉ですよ、なんだか分かってますか。しかもね、その内容もね、メシ食ってたら、なんか部屋がいつの間にかどっかの国になって、ピザだからアメリカだろうと思ってたらホワイトハウスが爆発して、ピザ食い終わったら全部消えたとか。だいたい気の持ちようでどうにかしようとするんですよ。採用してる私たちも悪いんですけど」
 V・Vは目の前を通り過ぎていくビールを見つめていた。カウンターの端でグラスは視界から消失し、一瞬のちに砕ける音。ビールの泡が店内の霊となって消えていく音を聞きながら、V・Vは目の前にやってきたマグカップを受け取る。彼女の隣の椅子を引いて男がV・Vに、「俺の糞は朝から便器の中で輝いていた。どうしてだと思う?」と、話しかけてきた。「昨日の晩、ローションを尻にすり込みすぎたんだな」「合格だ」男は手を伸ばす。「よろしく、V・V」「握手はしない」彼女は言った。男は引っ込めた手で、内ポケットから封筒を取り出した。V・Vはスヌーピーが犬小屋の上で寝転んでいるシールで封筒が閉じられているのを確認すると、自身の内ポケットにしまって、ホットミルクを飲みはじめた。自宅のアパートに辿りついたV・Vは、202号室の銀色のドアに伸ばした手を引っ込めて、耳を壁に当てた。彼女は拳銃を抜いて、安全装置を外した。
 こんなことがよくあったわけではない。《宇宙水槽》というネットラジオには架空の旅行記を送るコーナーがあって、汁本(しるもと)さんは私と同時期によく投稿を採用されだした人で、人かどうかは確かめたわけじゃないけれど、彼は――これも確かめたわけじゃないけど、アイコンが女の子なので男だろうと思っている――彼女と一緒に温泉旅行に行ってきた。事前にサイトで混浴があるかどうかを確かめておき、ホームページビルダー感まるだしのいかがわしいページだったがともかく混浴はあり、泉質の効能も充分なほどだがそちらは別にいかがわしくなく、しかし奇妙なヌルヌルが待ち構えていて、よほど丸坊主の館長さんに事情を説明されたところで、我々がしっぽりしていなかったら一体どうなっていたことか、そう破局の道のりを逐一説明してやりたい気持ちにもさせられるのだったが、彼女の前でもあることだし、土俵際でなんとか汁本(しるもと)氏は平静をもちなおした。確認したわけではなくともしっかりと覚えていた。目はいろんなものを見ていて、忘れるものを選ぶのはできない相談だった。この日も青空だったと思う。窓側の席ではなかったが、私たちがいつか一緒になれたなら、私が窓側に座っていたい。通路が見えないと彼女は落ち着かないのかもしれない。空の色とは関係ないけれど。前の座席から机を展開して、その上にマグカップが乗っている。中にはホットミルクが入っている。たっぷりといえるかはともかく、充分すぎるほどで、たぷたぷ波打っている。白く、揺れかたでやわらかさがわかるような気がするが、すでに知っているからかもしれず、彼女は一口飲んで、いつものような表情をする。なにもかも分かりきったように、でも彼女に分かられたいのは私のほうで、ホットミルクは温かく、もう一口飲む。味わってさえいる。V・Vはそろそろ光を見たはずだった。神聖なる、というわけでなく、ただ輝いてはいるようだ。起こりうることである。しかも本当に起こったのだ。窓側の席に座っていなかったのもこのことからわかる。いきなり全てを見たというわけではなかった。窓は閉じたり開いたりしていた。見たというより、まずは眺めていたのだ。通路側の席だったから、通路の向かいの人たちがよく見えた。いろいろなことをしていた。ひとつひとつ思い出せるわけではない。とつぜん、窓が光った。何が起こったのか分からなかった。巨大な何かが機体へめり込んでいく瞬間がゆっくりと訪れた。V・Vは自分が死につつあることを理解した。彼はつかまえた入浴剤のかたまりを鏡に放り投げた。垂れ落ちていくにつれて、湯船から両腕を投げ出して斜めから覗き込んでいるV・V氏の顔が現れてくる。どうしてこんなことになってしまうのだろう。彼はただ、休日の終わりをタンスにしまい込んでいた入浴剤を使ってほんの少し華やかにしようと思っていただけだったのに……だが、彼(?)はここで諦めるような男(?)ではない。彼の完璧な休日は、こんなことで壊されはしないのだ。ここからもメールは長いのだが、汁本(しるもと)氏はアパートの風呂場を出て冷蔵庫へぎんぎんに冷やしてあるコーヒー牛乳を取りに向かう、その4メートルほどの道のりを「旅行記」と称しているのである。コーヒー牛乳を飲みながら彼は別れた女のことを思い出す。「そんなわけで、私はあの女のことを忘れることができた。そんなわけねえだろ。殺すぞ」と逆ギレ気味にメールは終わっている。なるべく音を立てないようにドアを肩で押し開ける。廊下の曲がり角の向こうに躍り出た汁本(しるもと)氏は、銃口をゆっくり下ろした。ベッドの中には、白ふんどしを身につけた(それ以外は何も着ていなかったと言ってもいい)ジェイミー・フォックスにもう少し頬骨を張らせたような顔の黒人がゆったりと寝転んでいた。ブルーライト軽減用の角縁眼鏡をかけていたため、電気スタンドの白っぽい帯をすり抜けて淡く照らされている肉体にレンズは反射したまま覆い被さって、眼球が白い矩形に切り抜かれているのかと思ったけれど、長年にも渡ってそう思い続けるほどV・Vは落ち着きをなくしていたわけではなかった――実際、ベッドの中を見つめているそのときも表情だけは平静を装っていた――殺し屋は常に冷静でないと務まらないものなのだ。男はベッドの中で寝返りを打って、うつ伏せになり、顔を振り向いて、
「俺の引き締まった尻は好きか?」
「好きだ」
「じゃあ、やることは一つだろ」
「そうは思わない」V・Vは言って、ベッドに寄りかかりながら、この男は誰なんだろうと考えていた。心当たりはなかったし、もとより誰でもない理由を探していたような気もした。偶然に出会った人間が、お互いにとって誰でもなかったとしたら、どんなに気楽で、都合がよく、美しいことだろう。「美しい」は余計かもしれない。V・Vはベッド脇の引き出しから水色の表紙のノートとボールペンを取り出した。いまは仕事に集中するべきだし、そのときはセックスなんて考えない方がいい。そう決めてかかっているからには、現実の方でもそのような摂理が働いているのが望ましい。そううまくはいかないことが世の常なのであるが……「ところで誰だ、お前」男は答えなかった。そういうこともあるさ、V・Vは思った。彼は笑みを浮かべていたが、決してバカにしている風ではなかった、というのはどちらが考えたにしても意味ありげになってしまうが、ただ決められた役割について笑っただけのように思えた。それ以上に「誰だ」という気分が消えることはなかったが、丸腰であることは間違いないのだから、どうせなら安心しているがいい、と言い聞かせた。そんなわけで、開いたノートにはスヌーピーのシールがずらりと並べられている。彼女自身が並べて貼っていったのだ、というのが正しく、四つに一つほどは(これも正確ではない)チャーリー・ブラウンのシールだった。犬小屋だけのシールは一つもなかった。よっぽどのことがない限りそんなシールは使われるはずがない。V・Vはもらった封筒からスヌーピーと犬小屋のシールをはがし、ノートに貼りつけ、今日の日付をそのすぐ隣に、ボールペンで(それも青のゲルインキ配合でインクの乗りがぺたっと平板な感じになるやつ)書き加えていった。
 それすらも一つの愛情表現であるといった風であった。面倒なのでだいぶ省略するが(見ず知らずの他人の恋愛事情に誰が興味を持つというのか!)、いざ混浴となって彼はためらう必要もなさそうだったが、とりあえずためらっておき、彼女の真っ白な背中にじゅうぶんためらい終わってから飛びついたそのとき、岩の陰からモップと青いバケツを持ったうす汚いおじさんが出てきた。まるで掃除をするためだけに生まれてきたような顔をしていた。おじさんは湯の端で抱きついたまま震えている二人を眺めて、おもむろに腰を振りはじめた。凝り固まっている関節がほぐれていき、この通り柔軟にほぐれてゆくのであるからいくら腰を振ったところで構わないはずである、といった顔で背中から手を離して、岩の陰から専用の洗剤ボトルが乗っているカートを滑らせてきた。「まぜるな危険」の文字を指でなぞったおじさんは、もう彼女の肩から手を離している男に目配せしながらうなずき、モップをバケツの中に無造作に突っ込んで、かなり長時間、まるで大木でも揺するように中で泡立ててゆき、ようやく引き抜いたモップを岩状のタイルにこすりつけていった。「俺はどうしてこんな仕事についているんだろう」一人が言った。その他の声や足の震え方でもなにやら鬼気迫るものがあった。「とにかくだね、標的はだいぶ精神的にも余裕がある。こちとらハンデを背負ってはいるが、なにしろ優秀なんだ君は、やってくれるしかないんだよ今回も。いいね。やってくれますね」「犬を飼ったらどうですか」「誰が飼うか、そんな! あーっ」V・Vだって言ってみせただけで、犬なんかに絶対に興味はなかった。彼女は受け取ったそれを内ポケットにしまった。銃を持ってきていないことが気がかりだった。飛行機が到着した先で別の連絡員から入手する手はずになっているのだ。助け合うのは素晴らしいことだ。人と人との触れあい、やさしさ、ありがたさ。犬なんかクソだ。猫もクソだ。人間は最高。気温が下がってきた。通路は灰色になってきて、飛行機につながっていた。機内に乗り入れるまで、それどころか座席に腰を下ろしたあとも、V・Vは一度も振り返ることはなかった。背もたれがすぐ後ろにあったから、振り返っても背もたれが見えるばかりで、だからそうしなかったというわけではなく、くすんだマーブル模様をしていた。おじさんはなおもV・Vに襲いかかろうと欲情した腕毛をぶるぶる振りまわし、熱みに耐えながらなんとかまぶたを開いて、ちょっと確かめるように一旦自身のちんぽに触れたあと、飛行機で湯の奥底へと逃亡していく彼女におもいっきり両手を伸ばす。犯してやるぞ。俺のものをきざみこみ、よくよくその形を憶えさせてやるのだ。こうやって女が逃げていくのも、俺にそこまで追いかけさせて、その気にさせたいがために他ならない。その手は食わんぞ。こう見えても俺はクールに物事を進めていくのだし、これは自慢ではなく単に事実を指摘しているに過ぎないのだが、テクニックにも自信があるのだからな。貴様が何を求めているかは手に取るように分かるのだ――ようやく酸欠気味の女が岩肌の底に辿りついて、なにか考えごとでもあるかのように振り返る。接近していく男が女の巨乳に触れて、さて揉んでやるぞと指を握り込んだところ、いい香りの泡になって消えてしまった。